英雄なき島 最終回
投降
会議 どれくらいの時間がたっただろう。
壕の中でぼんやりしていたら壕の入口の方から「おーい」「おーい」と懐中電灯を持った男が入ってきた。
壕内に緊張が走った。
懐中電灯を持っているのはおかしい。日本兵が懐中電灯なんて持っているわけがない。
その男は「今までここにいたK兵曹長だ」
と言いながら近づいてくる。
中は真っ暗で顔がわからないため、その男を敵だと思い、
「鉄砲で撃って殺すか」
と相談していた。その男はゆっくり近づいてきて自分の顔を照らした。
顔を見ると確かに今までいた兵曹長だった。アメリカの服を着ている。
話を聞いて事情がわかった。さっき外に出た者が全員捕虜になったのだ。そして米兵に命令され、
「まだ壕の中に誰かいるか調べに来た」という。
その男は貰った水筒の他に、チョコレートやたばこを持っていた。そのタバコを差し出し、ライターで火をつけ、
「吸え」と言った。私はもらったタバコを吸った。
その兵は、「貴様たちも出てこい」
と捕虜になることをすすめた。
そこで2時間ほど話し合った。意見は分かれた。
米軍に殺されないことはわかった。しかし日本に送還されれば軍法会議にかけられ縛首刑になる。
犯罪人になれば家族も暮らしていけない。
それをみんな恐れていた。
結局、結論が出ず3時半になった。
その男に、そとの米兵が拡声器で、
「夕方になるので外に出ろ」
と命令してきた。
「私はここで死ぬよりも、捕虜になろう」
と壕内に残った兵たちに言った。
するとしばらく兵たちだけでコソコソ話し、私の方を向き、
「じゃあ責任をとってくれ」
と言ってきた。
その当時は捕虜になったら軍法会議にかけられて死刑になる。
ただし、上官の命令で捕虜になったのであれば死刑にならないというルールがあった。
だから、「捕虜になれという命令を出してくれ」
と言ってきた。日本に送還されて軍法会議にかけられた時に、
「捕虜になれと命令したと証言してくれ」
と言っているのである。私は驚いた。
これまで私はこの壕で指揮官らしい待遇は受けたことはない。
T飛行長らがいなくなった後は、各人が思い思いの生活をするようになった。
私と菊田も将校という意識はなく、兵たちに紛れて日常を過ごしてきた。
それがこういう事態になったとたん階級を持ち出して、「責任をとれ」という。
私は鼻白む思いだった。
「勝手なことを言うな」と怒鳴ろうと思ったが、「しかし・・・」と思い直した。
目の前の兵はほとんど四十以上の応召兵だった。帰れば妻がいて子がいる。
赤紙一枚でこの島に連れてこられ、今日まで生き延びた。
生きて帰りたいだろう。
兵たちは必死の形相だった。捕虜になるのは簡単だ。
しかし日本で銃殺されては意味がない。私はその時23才だった。
若かったのだろう。
「じゃあ俺が責任をとってやる」
と言った。
そこは南方空の壕だったから、自分が命令を出す形で全員捕虜になったのである。
菊田も無事に捕虜になった。菊田はその後生きて日本に帰り、終戦後は健康を取り戻した。
午後四時頃、我々は壕を出て米軍の捕虜になった。
米軍もまだこんなに日本兵がいたのかとびっくりした。
米軍の資料では、南方空の陥落は、5月17日になっている。
その時の捕虜は63人。死者は20人であった。
壕の上は飛行場が整備されて、平穏に日常の生活が営まれていた。
捕虜の数はすでに千人までに増えていた。我々は一番最後の組だった。
後の資料には、我々が捕虜になることによって、南方空が落ちたとされた。
そしてそれが日本軍最後の戦闘だと言われた。その実態がこれである。
二月十九日から始まった地上戦が、その後三か月も続いたのではない。
米軍が上陸して数日で大勢が決まり、三月の初めには組織的な抵抗が終わり、
三月の二十日を過ぎると日本軍は全く抵抗していない。
その後は一万人もの日本兵が壕の中に隠れてじっとしていた。
だから日本軍は永持ちしたのである。南方空の壕の実態を見ればそれは明らかである。
米軍に連れられて我々は歩いた。陽はすでに西の海に傾いている。
夕日が美しいため、より深い悲しみをおぼえた。
砲煙に覆われ、二万数千の将兵の血潮に彩られた硫黄島の戦場も、
やがて歴史のひとこまとして忘れられてしまう。
太陽は水平線に呑み込まれるように没しようとしていた。
侍の国
我々はグアム、ハワイ、シアトルを経由してサンフランシスコに向かった。
グアムを見たときに驚いた。島は大きく、ジャングルは深く、水もある。
「これならいくらでも逃げ隠れが出来るな」
と思った。
現にグアムが落ちてから一年が経とうとしているのに、まだ日本兵が生き残って潜伏していた。
グアムに行った時、米兵と捕虜になった日本兵がコンビを組んで、あちこちに食糧をばらまいていた。
翌朝そこに行ってみると食料がなくなっている。
それで、この辺にはまだ日本兵がいるな、とわかる。そういった調査をした後に、日本兵を使った投降勧告がされていた。
グアムと硫黄島を比べた時に、決定的に違うのは、水である。
硫黄島では、水がないことが兵を苦しめ、死に追いやった。
硫黄島しか知らない私にとって、緑が鬱蒼と茂り島も大きいグアムは夢の島に見えた。
我々は、グアム、ハワイを経由してシアトルに向かった。外気が少しひんやりとしていた。
どんよりと雲の垂れこめた港町シアトル。そこで列車に乗せられた。
町の道路にはおびただしい数の車が数珠つなぎになっている。
私は最初、巨大な自動車工場の中に入ったのかと思った。
自動車が庶民の足となり、町中を走っていることが理解できなかったのである。
MPの腕章をつけた士官が、
「これからサンフランシスコに向かいます」
とだけ説明をした。
それから三日後の朝七時ごろ、MPがやってきて、
「30分後に終着駅オークランドにつきます。下車の準備をしてください」
「無事に輸送を終わる事が出来ました。みなさんありがとう。感謝します」
と言って立ち去った。
その後数分して三名の黒人兵が、
「ジャップ、サレンダー、サレンダー」
とはしゃぎながらやってきた。
なんのジョークを言って騒いでいるのかと彼らを見ると、その中の一人が新聞を高々と揚げて私たちに見せた。
JAP UNCONDITIONAL SURENDER
デカデカとした横文字が目に入った。
「ああ日本は敗れたか」
「日本は降伏したか」
と心の中で呟いた。車内は静かであった。
収容所生活では自由に新聞や雑誌を読むことができた。
ヤルタ会談やポツダム宣言。
それに8月初めの新聞に間もなく日本政府が宣言を受諾し、降伏するだろうという記事も掲載されていた。
この時点ですでに状況は知っていたから降伏の事実も冷静に受け止めることができた。
駅に降りると、
JAP UNCONDITIONAL SURENDER
の横断幕が目に入った。しかし誰一人話すものはいなかった。
日系二世の下士官が私たちを自動車に乗せて港に向かった。
あまり大きくない波止場で連絡船のような小型の船に乗船した。
空間に刻み込まれたように、紺碧のサンフランシスコ湾をひと跨ぎにしているゴールデンゲートブリッジの遠景が目に入った。
「ああこれがゴールデンゲートブリッジか」
悲惨な戦争や敗戦の悲しみを忘れさせる穏やかな景色。
大きなキャンパスに描かれた風景画を見ている気持であった。
・・・
間もなく、私はエンジェルアイランドに着いた。
これが私の昭和20年8月15日の思い出である。
その後アメリカ本土各地の収容所を転々と移り、終戦の翌年である、昭和21年1月7日に浦賀に帰ってきた。
追記
私は記憶の中にある硫黄島をありのままに語った。
戦争では、立場や場所が異なれば、戦場の姿も違って見える。
だから私は自分の体験したことだけが真実だというつもりはない。
私の証言は、他の者の証言や資料と矛盾する点があるだろう。
しかし、私がここで語ったのことは、まぎれもなく「私の真実」である。
その記憶は、63年たった今でも、私の脳裏を片時も離れない。
これを読んだ方がたが、私の証言に対し何を感じ、何を思うかは自由である。
元海軍中尉 大曲 覚
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