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「英雄なき島」

 

「英雄なき島」より

 

南方空の壕

いくつもの壕を転々とした。

私が入った壕はどこも死人と負傷者でいっぱいだった。

自分一人が生きていくのに精一杯だから、誰も負傷者の看護はしない。

横で、「うーん、うーん」と唸る傷病者がいると、それが顔見知りの者であっても、

「少し楽にしてやるから」といって手ぬぐいや紐で絞め殺していた。

人間は非情な動物だ。

その時その時で、弱い者は弱く、強い者はますます強くなっていく。

戦争の本当の恐ろしさは、大砲や機関銃で撃たれることではなく、

人間の本性が露わになっていくところにある。私はそれを体験した。

水を飲みたいという欲求だけで生きていた。

五月に入ると、夜水や食料を漁りにいっても、人とあまり出会うことがなくなった。防空壕の日

本兵に対する掃討が進み、皆死んだのだろう。

私は七、八人くらいのグループで行動していた。小さな壕を見つけ、そこを根城とし、夜になる

とニ、三のグループに分かれて食料と水探しにいった。

ある夜、ばったりと南方空の兵隊三人に出会った。私は三、四人の兵を連れていた。

「おお、どうしているんだ」

と私が聞くと、

「斬込隊に出されました」

とうつむいて答えた。

私は驚いた。当時はもう、斬り込みが出来るような戦況ではない。

しかも武器は手榴弾を持っているだけである。

「斬込隊といったって、お前たち、武器は何も持っていないじゃないか」

と言うと、三人の兵は、

「敵の武器を奪い、敵の物を食って戦えと言われて出されました」

と答えた。

「お前たちの壕には何もないのか」

とたずねると、

「食料も水もあります」

と答えた。

「南方空の壕には何人くらい残っているんだ」

と聞くと

「百人以上います」

という答えが返ってきた。

私は驚いた。この頃はどこの壕でもせいぜい十人以下になっていた。ところが彼らがいた壕には

まだ百人以上いるという。それだけの人数がいるということは、水も食料も十分にあるのだろ

う。

よし、これで南方空に帰れる。私は元気になり、

「一緒に壕に帰ろう。案内せい」

と肩を叩いた。しかし兵たちは、

「帰ったら殺されるから、だめです」

と後ずさりした。

「?」

斬込隊に出されたのだから帰りずらいのはわかるが、

「殺される」とはどうゆう意味だろうか。しかし理由はどうあれ彼らに案内してもらわなければ

南方空の壕の入口がわからない。

「行こう。俺が話してやる」と必死に説得したが兵たちは逃げるように離れていった。

いったい、南方空で何があったのであろうか。

別れる際に壕の入口の場所を聞いた。それを頼りに自分たちで探しに行った。しかし砲爆撃で地

形が変わってしまって入口がわからない。必死で探していると、岩陰に素っ裸で涼みに出ている

兵隊がいた。近寄ると、その塀は飛び上がって驚いた。私が「南方空の兵か」と聞くと、おびえ

た表情で「そうだ」と言う。

「南方空の壕に連れて行ってくれ」

と頼むと歩き出し、岩場の一角を指でさして足早に去っていった。

後で分かったことだが、南方空の壕では外に出ることを禁じられていた。その兵は壕内のあまり

の暑さに耐えきれず、夜外に出て涼んていたのだ。

外に出たことがばれると二度と壕内に入れてもらえない。だから私たちに入口を教えた後、外に

出たことがばれないように別の入口から中に入ったようだ。

南方空の壕に行ったのは五月三か四日だったと思う。

三月八日に総攻撃に出て、戦車隊に入った後、北地区の銀明水付近から金剛岩、日出浜、神山海

岸を経て、九万集落の戦車隊、そしてやっと南方空の本部壕にたどり着いた。二か月ぶりであ

る。我が家に帰った思いであった。ここは本部の壕だから水や食料が豊富なはずだった。

南方空の本部壕の入口は艦砲射撃によって岩が崩れ、完全に塞がれていた。壕に入るためには本

部壕と地下通路でつながっている小隊壕から入らなければならない。

南方空の壕では、壕内で指揮をとっていたT飛行長が壕の出入りを禁止していた。中に水と食料が

あるから外に出る必要がない。人が出入りした形跡がないから米軍も発見できない。そのため、

この壕は飛行場の真下にありながら、5月まで一回も米軍の攻撃を受けなかった。

壕の上はすでに米軍の飛行場が拡張されて、B29などの四発の大型機や小型戦闘機が並ぶ飛行場

になっている。

我々は入り口の発見にてまどった。三時間ほどかかってやっと発見した。その入口は主計科の壕

の入口で、中に入ると南方空の本部壕とつながっている。南方空の壕は大きく、このようにあち

こちに入口があった。

私は入口から中に入ろうとした。すると「待て」と中から四、五人の兵が銃を突き付けて侵入を

拒んだ。私は当然のことなのであわてず、穴をのぞき込みながら、

「俺は南方空の大曲中尉だよ。入れてくれ」と言った。

その言葉を補強するように、一緒に連れてきた兵士が、

「大曲分隊士だぞ」と叫んだ。

通常、壕に他の者は入れくことはない。特に食料や水が備蓄されている壕では侵入者は敵であ

る。人数が増えればそれだけ食料や水が減る。生死に直接かかわる事なので拒む方も必死であ

る。

しかし、それは他の部隊の者が来た場合の話である。その壕にいたものが帰ってきた場合、当

然、中に入れてもらえると思っていた。ましてや私は将校である。これまで部下だった者もいる

から、私の名前を出せば銃を下ろして歓迎してくれると考えていた。しかしそれは甘かった。

「ちょっと待ってください」と中に入れようとしない。

兵は自分では判断できない。押し問答をしていたところ一人の兵隊が壕から出てきた。

どうやら将校の伝達のようだ。伝令は、我々の話を聞いていったん壕内に消えた。

我々はジリジリしながら待った。数分後、兵が戻ってきてこう言った。

「南方空は三月八日の総攻撃ですでに解散した。今更、南方空の者だと言っても壕に入れること

はできない。これがT飛行長の命令です」

と言って引き返していった。

私は呆然とした。兵たちは相変わらず銃をかまえて入れようとしない。

「もう一度飛行長を説得してくれ」と頼んだが、

「命令ですから」

と首を振って銃を下ろそうとしない。

あまりにもその態度が強固であったため、その日は潜伏していた壕に帰った。

 

突入

 

壕内で菊田たちと相談した。

我々は南方空である。それが自分たちの壕に入れない。どう考えても納得できない話である。南

方空には食糧も水もある。それを分けたくないために入れないという。

日を追うごとに怒りが込み上げてきた。

そして数日し、もう一度交渉に行くことに決まった。その時は菊田も加わって八人全員で行くこ

とにした。人数が増えて気が強くなったのか、

「我々は武器を持っている。入れてくれないなら突撃しよう」

と言う者も出てきた。またある下士官は、

「突撃しようじゃないか。向こうが死ぬかこちらが死ぬかだ」

と興奮して言った。

私たちはこの一か月間、戦時をさまよい歩いてきた。そういった経験が我々に度胸をつけてい

た。

 

私たちはもうどこへも行くところがない。南方空の壕に入れなければ飢えて死ぬか米軍に殺され

るしかない。我々は野犬の群れのようになって夜の岩場を突き進んだ。

南方空の壕を指揮していたのはT飛行長だった。

我々は専門学校や大学を出て兵隊になった予備役だったが、Tは海軍兵学校を出た現役の飛行長で

ある。「絶対に外に出るな」と厳重なルールを決めていたのはこのT飛行長だった。

菊田が連れてきた兵隊と私が連れてきた兵隊八人で主計科の壕の入口に行った。しかしやはり番

兵は

「入れない」と言う。

我々は番兵を押しのけて強引に中に入ろうとした。番兵は我々を止めようとして立ちはだかっ

た。

人間性を失って野犬のようになっていた我々は一気に壕内になだれ込んだ。当番兵は私たちの気

迫に押されて銃をかまえたまま後ずさりした。

当番兵が、

「これ以上入ったら撃つぞ」

と叫ぶ。

「撃つなら撃ってみろ」

下士官が怒号し、持っていた銃を壕の天井に向かって、バババババと発射した。

我が下士官が持っていたのは死んだ米兵から奪った軽機関銃であった。当番兵がおびえた声で、

「南方空は、三月八日の総攻撃で解散をした。それを今さらここの航空隊の兵隊だとか、将校だ

からといってもだめだ。この壕には入れられない」

と叫ぶように言った。

私は、

「この壕は私たちの部隊の壕だ。追い出せるものなら追い出してみろ」

と言い返した。

それに対し当番兵は、

「この壕の食糧や水は限られている。他の兵のために入れるわけにはいかない。いかなる理由で

あれ外に出たものは二度と戻れない。それがこの壕の掟なのだ」

と大声を出した。

話し合いは一時間に及んだ。結局、

「入ったものはしょうがない」

と言う事になり、我々はうやむやのままこの壕に居座ることになった。我が決死隊の勝利であっ

た。

その後、我々の侵入行為がT飛行長らに報告されたが、事後承認されたようだ。その後も追い出さ

れることもなく、無事に南方空の住民となった。

壕内には百三十人ほどいた。この時期、いくら大きな豪であってもせいぜい十四、五人で、これ

ほどの人数の壕はなかった。

中には新参の我々を嫌がる者もいたが、反対に歓迎してくれる者もいたので助かった。顔見知り

の者が駆け寄って握手で迎えてくれたのは嬉しかった。

本部の壕だけあって水のドラム缶がまだ、六、七十本あった。乾燥野菜、缶詰、米、乾パン、何

でもあるという感じだ。 水は一日一回水筒に配給される。食事もおにぎり一個が配られる時も

あった。久々にご飯が食べられた。もう毎日危険を冒して水や食糧漁りをしなくて済む。竜宮城

でのような生活になり、少しだけ人間性を取り戻したような気がした。たとえようのない安心感

をおぼえた。

このころは米軍も日本兵を探していなかった。

「日本兵はもう全滅して残っていないだろう」

と思っていたようだ。

米軍が力を注いでいたのは、飛行場の拡張整備であった。より多くの大型機や戦闘機を使えるよ

うにするため、昼夜兼行で作業をしていた。

深夜、飛行場をのぞくと、トラックが走り、大型ブルトーザーがフル稼働していた。作業は二十

四時間続けられていた。

米軍の硫黄島戦は、実質的に一か月で終わった。三月二十日ごろを過ぎると、夜の銃声をほとん

ど聞かなかった。

 

 

つづく

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