英雄なき島 3
前回のお話の続き
豪雨
この水攻めが行われたのは5月14、15日から20日頃までの間だと思う。
結局5、60人が助かり、4、50人が死んだ。生き残った者も大半が負傷している。
米軍は去った。中の日本兵は全滅したと思ったようだ。
壕の中に備蓄していた水と食料のうち、ドラム缶の水は残ったが多くの食糧を失った。
私はまた生き残った。そしてまた食糧探しの毎日になった。
5月の半ばを過ぎると、砲煙に覆われ、数万の数万の血潮に彩られたかつてのこの戦場にも、
小さな青い草の芽が出始めた。自然は人間たちの殺し合いとは全く無関係に、忠実に時を刻み、季節を巡らせていた。
夜、外に食糧探しに出ても、米軍が捨てたり残したりしていった水や食料を、
探し求めて彷徨う日本兵と出会うこともほとんどなくなった。どこかの壕内で死んでしまったのだろう。
それから壕の中は、不安と焦燥だけが際限なく膨れ上がった。
日1日と減少していく生への意思を自分で計りながら生きていくに過ぎなかった。
壕内は奥行きがあり、地下通路がアリの巣のように分かれていたから5、60人が助かった。
水攻めを受けた日から3、4日した朝、急に壕内に水が入ってきた。
米軍が攻撃してくるのは必ず朝10時頃だった。
攻撃の前には必ず拡声器でジャズをかけ、日本語や英語で水を入れると宣言した。
ところがその日の朝はいきなり水が入ってきた。
驚いて兵たちが本部の壕と各壕の連絡通路に集まった。時計を見ると朝の4時頃だった。
これはおかしいと私は思った。米軍の攻撃にしては時間が早すぎる。
米軍の水攻めだと思っている他の兵隊たちは、狭い壕の中で慌てふためいてパニックになっている。
そうこうしているうちに呼吸ができなくなった。
なんだろうこれは。窒息性のガスかな、、、、それにしては臭いもないし、、、と私は疑問を持った。
それまで入れられたガスは催涙性が多く、皮膚が日に焼けてピリピリするような状態になった。しかし今回はそれとは違う。
「何かなあ。新型のガスかな」
そのうちに苦しくなって息ができなくなった。
あわてふためいて我々は壕を飛び出した。
みんなっ真っ裸だった。
外の飛び出した兵たちは岩と岩の間に隠れた。
米兵が近くにいて、撃ってくると思ったのだろう。
私も外に出た。隠れた兵たちを見ると頭を岩と岩の間に突っ込んで隠していたが。
岩の隙間が小さいため全員のお尻が出ていた。頭隠して尻隠さずそのままだった。
外はものすごい豪雨の後だった。
水たまりはなかったが、岩の濡れ具合や泥が流れている様子から大量の雨が降ったことが分かった。
この水が壕内に流れ込んだのだ。米軍の攻撃だはなかった。
壕内はガスが充満して呼吸ができない。とはいえ、こんな状態で隠れていてもすぐに米軍に見つかってしまう。
自分が隠れるところもないし、これだったら苦しくても壕の中に入っている方がよいだろう、と思い中に入った。
私はトボトボと壕の中を歩いた。今の騒ぎで心の糸が切れたような気がした。
もうどうでもいい。そう思って力なく座り込んだ。と、何か足元でもそもそと動いている。
何かなと思って見たら菊田だった。
「お前まだ生きていたのか」
と驚いた。菊田はすでに意識が薄れ
「死にたくない」とうわごとを言っていた。
壕の中にはガスが充満し、負傷して動けない兵の大半が窒息して死んだ。
菊田も死ぬべきところ、風通しが良い場所にいたため息を吹き返していた。
運のいい男である。
私は無気力であった。誰に対しても何の感情もわかなかった。無表情に菊田をながめていた。
南方空の壕は、入口から30度くらいの斜面で15メートルくらい掘り下げ、
そこでいったん平らになり、そしてまた下がっていく。通路に傾斜があるため、
大量の雨水が流れ込んだのだ。そしてガスを充満させた犯人もこの雨だった。
あちこちにある壕の入口は艦砲射撃や爆弾で塞がれている場合が多い。
塞がれてはいても岩の間に空気が入る隙間がある。
その隙間が空気孔の役目をして壕内の窒息を防いでいた。
ところがどしゃ降りの雨で土砂が崩れ、その隙間が塞がって、風が入ってこなくなった。
その中でガスが充満して呼吸ができなくなったのだ。
壕の中は2、30人の兵がいた。何人が生き残っているのかはわからない。
その他の者は外に出たままだった。
続く
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