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〔Vol.4〕オイルショックで飛躍<おばあ編>

前回の続き

僕は1歳である、まだ記憶はない・・・汗
(昭和48年〜49年はじめ頃のエピソード)

直感を信じる”おばあ”の素早さ

おばあ は、天才的な商売人であり事業家だと僕は思う。
その先見性は、軽く四半世紀先(25年先)を見据え、その行動はまさしく電光石火。

おばあ の仕事は、とにかく速い。
(早いし、速いし、疾い!)

その秘訣を僕は2つあると考える。

1)「直感」のおもむくままに”素直”に行動

とにかく、初動が疾い!
周囲が気付いたら、もう、おばあの背中は見えない。
感じるのが先か?動き出すのが先か?というほど。

2)強い”責任感”で「自己完結」させる

みんなが知らないうちに、誰にも言わずに、もうやってしまってる。
だから、きっと失敗っていうか、痛い目にもあってると思う。
でも、愚痴は一度も聞いたことがない。

 

不漁の電報・・・おばあの即断即決!

うちの実家は漁師でした。
近海〜遠洋、養殖、そして加工場などもあった。

おばあ は、140人以上の漁師を束ねる網元の嫁として、一族郎党を含め、総勢600人ほどを養っていた。
そんな おばあ の元に一本の電報が入ったのが、第4次中東戦争に入りオイルショックとなる3ヶ月前。

【シナカイ フリョウ カラブネ キロ】
(シナ海 不漁 空船 帰路)

生まれたばかりの僕を看るために大阪に来ていた祖母は、父の会社への挨拶をしたり、大阪の問屋巡りをしながら、中東情勢の情報を仕入れていた。

そして長崎に帰ったら、この電報。
不漁で遠洋組が空船で帰って来ると、乗組員の給料や船の燃料、その他の経費で当時でも1500万〜2000万の損害が出ていたそうです。

おばあ は、電報ではラチがあかないと判断し、最寄りの港への寄港を打電。

そして船団のうちの数隻に「長崎に直接帰らず、生活関連物資を大量に買い込んで積んで来い。金は私が工面する」と指示したそうです。そして、本船から遅れること、2週間後にトイレットペーパーなどを満載にした漁船が帰って来た。

村の人たちは、おばあのことを「気が狂った」言い、大量のチリ紙を見ながら「そんなに尻を拭くのか?」と笑ったそうです。

これが、オイルショックの始まる2ヶ月前ほどのことだったそうです。

 

そもそも、父を漁師にしなかった祖母の先見性

僕の田舎で、男の仕事と言えば、普通に「漁師」が当たり前だったころ。
もちろん、僕の父も漁師になるもんだと思っていた。

ところが、父の恩師(当時の中学教師)である、地元の御住職の話しでは父が中学2年生のとき、祖母が突然学校に来て先生に「うちの次男は漁師にはせんけん。なんでも良かけんが、次男ば「会社」っていうところに入れてやってくれんね」って言ってきたと・・・。

漁業の最盛期で、地元でも1・2を争う網元の次男坊である。
先生は耳を疑った。

しかし祖母は「いつまでも漁では喰えんごとなる。兄弟揃って漁師ばしよったら、うちの家は倒れるかもしれんけん、次男には商いばさせたかと」と、先生を説得。

こうして父は、中学卒業と同時に、大阪の問屋(今は商社)に丁稚に出されることになる。

(オイルショック<父編>に続く)

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