勝手にさせて頂くのに、名乗る奴があるか!【父の遺言(3)】
まあ、なんだかすっかり見透かされているのである。
昨日、僕が帰郷していることを知った父の元部下の方が、僕を訪ねてくれた。
そして、生前に父がその方に託した言葉を頂いた。
「恥ずかしげもなく、善い行いを名乗ってやってはいないか?」
「昔教えた『因幡の源左』の話しを思い出してみよ」
スポーツチームのスポンサーや、慈善活動の協賛・寄付などを、名乗ってやるようなことは、調子に乗り、自分を見失った人間の行いである。
それが、父の教えでした。
ついつい調子に乗って、名乗ってしまいました・・・。
因幡の源左 とは
江戸後期に因幡国(島根県)に生きた浄土真宗の妙好人(信仰に篤い名もない在家信者)の一人。
源左の逸話はいくつかありますが、もっとも有名なお話しは「田んぼの畔(あぜ)直し」です。
源左は地元の田畑を見て歩いては、畔から水漏れしているところを見つけると、他人の田んぼでもすぐに直してやっていました。そして直してやったことを、その田の持ち主に一度も話したことはありませんでした。「勝手に直させて頂くのに、礼など言わせては申し訳ない」というのが、源左が黙っている理由です。
またある日は、自分の麦畑に追い肥をしようと肥桶を担いで行く途中、他人の麦畑がひどく痩せていることに気づき、すぐに「こっちが先だな」と、その畑に追い肥をして帰った。
源左には「誰を利するか?」という考えなどなく、いつも今できる最善を尽くすことが、当たり前だったのです。
父の遺言
お前たちには幼い頃から、とりわけ「生きる力」をつけさせるために、厳しく躾てきた。
それは、各々が自立したのち自分の力で「より善く生きる力」を高めてもらいたい一心で躾てきた。
「生きる力」と「より善く生きる力」とは、全く違ったものである。
前者は、賤しくもまずは自分が喰うための力である。
後者は、我も人をも幸せにする力である。
商売をするのであれば、第一に損得について練達するは当たり前である。
しかしその先には、ただただ正直に励み、その一挙手一投足は、自分のためと同時に他人のためにも、そして世の中のためにもならねばならない。努力しなければならない「三方よし」などは、まだ真に役立つ仕事になっていない証である。
商売をし、自分が利を得るというのは、もしかしたら他の誰かが不利益を被ることになる。
もし恨み、妬み、蔑みがあるとしたら、どちらか一方に利が偏っているということが考えられる。
それは、正直な商いとは言えない。
思い当たる・・・
偏らず、利のバランスを整えてみようと思う。
そのために、まず各ステークホルダーとよく会話してみることにしよう。
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