硫黄島で生き残った人の話。
硫黄島で生き残った人の話。
(写真は硫黄島の医務課壕の中にあったドラム缶)
「もう死を覚悟してね、というのは私の部隊、私が小隊長だった部隊はね、
戦っていた地下壕に閉じ込められたんです。
爆撃で閉じ込められたけれど、栗林忠道閣下を尊敬していたから、
閣下が自殺するなと言ったからそれを守って、
呼吸もしにくいがじっと我慢して真っ暗な中で耐えていた」
「ところが自分の隊に少年兵がいた。少年兵というのは15才とかではないですよ。
おそらく18才前後ですね。17才くらいかもしれません。
一番若かったやつの、はらわたが出ていて、
真っ暗な中で手探りすると、明らかに腸に触った」
「そいつがもう苦悶して苦悶して苦しんで、
小隊長殿、自分は栗林中将の、司令官の御命令に背くけれども自決したいという。」
「私はもう我慢しきれなくて、
よし、いいぞ、おまえ自決しろと言って彼が手榴弾を抱えこんで、自爆した。
その衝撃で上に穴が開いて、島を占領したアメリカ軍がたまたま通りかかって、
なんだこの穴はと見たら生き残っていた日本兵がいたから、それで私は捕虜になって、硫黄島から抜けることが出来たんです。」
「地下壕の中にはドラム缶はありましたか」
「あれだけが、あのドラム缶の水だけが自分たちの命だったんですよ。
スコールが降るとね、もう夢中で貯めたんですよ。
地下壕から何とか外に出してね、また引きずり込んでね」
「地下壕の中でも、あっという間に戦友が吹き飛ばされて、
人間の髪とか肉とかがあっという間にね、水に混じるんですよ、
肉とか髪の毛が混じっているのに飲むとね、甘露、甘い露みたいにおいしかったんですよ、
おいしかったけどね、しかし先に死んでいく戦友に末期の水だと思ってね、
そのドラム缶の中から汲んで戦友の唇に浸すとね、
壕の中は気温70度だから熱湯なんですよ。
熱湯だからね、戦友の口に浸すと唇がやけどして、
あっという間に腫れ上がるんですよ。
しかしそれしか末期の水が無かったから。
私にとってのこの60年はあの腫れ上がる唇ばっかりを思い出してきたんです。
だから毎日毎日、お水を冷やしてね、南に向かって捧げてね祈ってきたんですよ。」
(写真の壕の中の壁が黒いのは、火炎放射器で焼かれた後です)
今日は前回のお話の、大日本帝国陸軍 硫黄島 昭和20年5月13日 浅田真二氏の
命日でした。
この記事へのコメント