人の育成が難しいのか?それとも育てるってことを難しく考えてるだけなのか?
最近、若い方々の指導で悩むというか、考えさせられることが多々ある。
いくつになっても、考えさせられるって幸せなことだと思います。
さて、人を育てようとすると、どうしても自分の型にはめてしまおうとしてしまうのが、僕の悪い癖です・・・。
そんな僕が自分をいさめるために、かれこれ20年くらい前に手にした小説「花あふれる」を読みました。
小説「花あふれる」は、小説「五重塔」で有名な小説家・幸田露伴の娘・幸田文さんが書かれた小説です。
幸田露伴は、伝統的な作法や美しい生活術の専門家であった江戸城お坊主衆の御家柄で、露伴自身も華道や茶道を極めた人としても有名です。
そんな父・幸田露伴のことを、小説「花あふれる」という小説の中で娘の文さんは、こんなエピソードを書いていました。
父は「いじくるということが大嫌いで、いじくりまわして活けた花を見せられているのが、またもっと大嫌いで、カンに触ってたまらないらしかった」。なぜなら「こねくりまわした花はヘトヘトになっている。さっと入れた花はちっとくらいおかしな恰好でも、傷んでいないのが取り柄で、傷んでいなければ勢いがあり、勢いがあれば花はひとりでに顔をこっちに向けるもの」であるからです。
僕は20年前、これを読んで、人間の場合も同じことが言えると考えました。
こねくりまわされた人間は、無理な発想を強いられてヘトヘトになり、人間性(自分らしさ)を失ってしまう。
生まれついての人間性を素直に伸ばしてきた人間は、どんな状況でも人として正しい道を自然に選び、踏み越えて来る。
しかし、注意も必要です。
華道の花は、花器に活けるために切られるまでは、ひとりで大地に根を張り育ってきたのです。
これに対して人間は、生まれた時から他の人間の影響を受けて育ってきます。
それまでに周囲にいた人々に影響されて、ひねくれていたり、ちじこまっていたりします。
その、うまく行かないように影響されてしまった部分を、取り除いてやるまでが、僕は「育成」であると思っています。
良い習慣さえ身についてしまえば、あとは僕が、こねくりまわさなくても人は育つ。
今日も一日、イライラせずに、自分の型にはめるような、こねくりまわすような接し方をしないように心掛けたいと思います。
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